創造論(科学的)再検証会議室

聖書に記されている神による創造説(創造科学)を信じる方々の情報交換を目的とした掲示板です。創造科学を否定するための主張を受容するのは当掲示板の目的ではないので、否定する見解は書き込めません。創造説に対する批判を書く掲示板なら他にいくらでもあります。当方は創造科学論に対する批判を聞くのはやぶさかではありませんが、当掲示板の設定趣旨は創造論の人々の確信を深める為にあり、その方面のかたがたへの配慮という理由で創造科学論への批判は管理人の許可なしには掲示しない方針です。しかし、同じ理由で、進化論の擬似宗教性とか擬似科学性への批判は、硬直した科学のパラダイムを反省する有益なものとして掲示が許可されます。ルールを守って参加している人を中傷する発言は削除されます。当掲示板では実名表記(姓名両記)の発言を発言者に要請します。
匿名、偽名、ハンドル名による発言はご遠慮下さい。当会議室・掲示板で発言の方は、実名表記だけではなく、ご職業と在職機関(教育機関名、または所属研究室名、または会社名)を含む自己紹介を、はじめにお願いしたいと思います。自己紹介を書きたくないが発言はしたいという方がある場合、正当な理由があるケースに限り柔軟に対応しますので、書けない詳細の理由と、氏名、職業、勤務先または所属研究室の省略しない名前と発言推薦者を一名付けた上電話連絡先を明記してお申し出下さい。折り返し確認の電話を差し上げてご本人が確認され次第発言を許可致します。これは単に発言者を含む当会議室の参加者のみなさんすべてに意見交換の誠意と責任の意識を高めるという理由の為であり、他意はありません。またそれは、当板が『自分の素性を明かして発言の責任を取らない無責任な人に公明正大な議論に参加させる』という不純不明朗な掲示板ではないという明確な意思表示です。このルールに従って発言・質問をなされる方がここで不都合な扱いを受ける事は断じてありません。以上のローカル・ルールに従っていただけない発言はここでは任意削除申し上げますがご理解とご協力をお願い申し上げます。

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高品質、安心、最低価格保証!☆*.".:  投稿者:品質を重視  投稿日:2008年 8月20日(水)14時02分23秒
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面白い!!!  投稿者:石川博司  投稿日:2008年 7月25日(金)10時03分34秒
   結構内容の濃いWEBですね。神の創造に対して、同じ流れを信じるものとして面白く拝見致しました。聖書、イエスキリスト、世界平和についてもっと書かれてあればとても面白いのではないでしょうか?!  

本年も有難うございました  投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年12月30日(日)06時34分51秒    編集済
  今年は私の勤務先の変更やら引越しなどで忙しくてあまり掲示板とHPの良い管理
人ではありませんでしたが来年もまた心機一転で継続して、また出来れば創造科学
HPをアップデートしてゆきたいと思います。創造科学を科学の一分野として定着
させる事が我々の使命です。頑張ってまいりましょう。来年もよろしくお願いします。

http://www.bronsonhealth.com/FindADoctor/HealthcareProfessionals/page3749.html
クリックで拡大
 

斉藤先生  投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年12月28日(金)12時45分51秒
  一応管理人である私は吉野様を発言禁止に致しましたので、吉野様に対して質問を
なさらないで下さい。一方吉野様はこの掲示板での疑問は斉藤先生のお答えから解
決を見出して完結して下さい。この掲示板は創造科学論の理解を深める掲示板です。
よろしくお願い申し上げます。
 

大事にする命とは  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年12月28日(金)01時57分42秒
  >キリスト教には、「大事にする命」と「大事にしなくても良い命」があるように思えてならないのです。

 人間と比べるとき、動物は相対的に「大事にしなくてよい命」です。だからこそ、神は人間に動物の血を流し、動物の命を奪っても人間が生きることを許しました。「 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(創世記9:3)。しかし、神はだからといって、動物の命を粗末にすることを禁じ、動物に対していたわりを持つこと要求しました。
 十戒の第4条で、神は動物にも週に一日休みを与えるように命じています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:10 )
 また「同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない」(申命記22:4)。「 道端の木の上または地面に鳥の巣を見つけ、その中に雛か卵があって、母鳥がその雛か卵を抱いているときは、母鳥をその母鳥の産んだものと共に取ってはならない。必ず母鳥を追い払い、母鳥が産んだものだけを取らねばならない」(申命記22:6ー7)とあり、動物の命を大切に守ることも要求しておられます。このように、聖書は動物の命も大切にするように言っています。

>キリスト教には虫供養や牛供養の発想はあるでしょうか。どちらが命を大切にしているのでしょうか。

 一般的に言えば、動物愛護の精神は日本よりもキリスト教文化の方が盛んなのではないでしょうか。例に挙げている、虫供養や牛供養は、動物愛護よりも、輪廻転生の概念から、虫や牛の背後に人間を意識するからではないのでしょうか。逆におたずねしますが、それでは、動物愛護のみならず環境保護、自然保護についても、日本仏教の方が、キリスト教よりも熱心だという客観的な証拠があるのでしょうか。

>神が創造した地球の生態系の中ではゴキブリの価値も認められているでしょう。

そのとおりです。神は無価値なものを造られるほど愚かではありませんから。

>そのゴキブリの価値を自分の価値基準で判断して排除する(殺す)のはエゴでしかありません。

 そう言いきれるのであるならば、牛を殺して食べるのもエゴになるのではありませんか。そうなれば、人間が生きること自体がエゴとなり、優しい人ほど生きる意味を失うのでありませんか。吉野様はなんでもエゴを理由にしたいようですが、キリスト教の本質は、十字架の死に表された自己犠牲で、エゴの反対です。「友のために命を捨てることよりも大きな愛はない」とも言っています。クリスチャンは動物達の犠牲の上に自分の命が与えられていることを覚え、供養するのではなく、動物を与えてくださった神に感謝するのです。プレゼントそのものではなく、プレゼントをくださった方に感謝するのが人としての礼儀であるならば、神に感謝することこそ人としての務めではないでしょうか。この点を考えると、進化論者の方こそ傲慢であり、感謝を捧げるべき方に感謝を捧げず、礼を欠いているのではないでしょうか。

>ゴキブリに人間と同じ価値があるとは言いませんが、無価値であるとも言ってはならないでしょう。

 神は無価値なものを造られません。しかし、生き物の価値は決して平等ではありません。なぜなら、人間だけが「神のかたち」に創造されたからです。そして、人間にすべての生き物を支配することを任されたからです。


>飛躍しないでいただきたいのは、「進化論」によって人間とゴキブリが等価だとは述べていないことです

5/28の発言では、>人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違い
に関し、吉野様は「これは本質において同じ、と考えております。」とお答えになっておられます。矛盾のように思えますが。


>「キリストを知ることに比べたら〜」

吉野様はキリストの価値がわからないので、そのようにお考えになるだけのことです。吉野様にとっては、智の方がキリストよりも価値があると思われるのでしょうが、クリスチャンはそうは考えません。世の中のあらゆるものよりも、キリストは価値があるのです。

>ニュートン〜

このページの2006年3月12日以降の野田様とのやりとりをお読みください。
 

吉野様へ  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年12月28日(金)00時52分31秒
  吉野真一様

コメントありがとうございました。
一言で言えば、「キリスト教信仰」というものを誤解しておられるのではないかと思います。信仰とは、疑うことではなく、丸ごと信じ、受け入れることです。それができなければ信仰を持つことはできません。「疑問点があるから信じられない」ではなく、「疑問点はあるが信じる」というのが信仰です。


エレン・ホワイトはこのことに関して「キリストへの道」という本でこう言っています。
「聖書には説明のできないこと、また了解に苦しむことが多くありますので、悪魔はそれらを用いて、聖書は神の啓示であるとの信仰を揺り動かそうとします。・・・神は私どもに、信仰の基礎を置くに足る証拠を十分与えたもう上でなければ、信ずるようには求めたまいません。神の存在も、品性も、またみ言葉の真実性もみな、私どもの理性に訴えるあかし、しかも多くのそうした証しによって確立されています。けれども、神は、疑う余地を全然取り除きたもうたのではありません。私どもの信仰は、外見的なものの上に築くのではなく、証拠の上に築くのでなければなりません。疑おうと思う者には疑うことはできますが、本当に真理を知りたいと求めている人は、信仰の基礎となる十分の信仰を発見することができます。」


聖書にヨブという人が出てきますが、ヨブに向かって神はこう言われます。
「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。
  高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる。
  神は地の果てよりも遠く/海原よりも広いのに。」ヨブ11:7ー9

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
  これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。
  男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。
  誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか」
                           ヨブ38:1

神はヨブの疑問には答えず、かえってヨブの無知を示します。吉野様は神のなさることに関して、疑問をいろいろ述べておられますが、吉野様は神よりも賢く、あらゆるものを知っておられるのでしょうか。たとえば、もしも地球が自転をやめたら〜うんぬんを言っておられますが、そんな理屈は神の前では一笑に付されます。もしも天が落ちてきたらどうしようと考えている人と同じことです。吉野様は、この宇宙ができた様子を見ていましたか、地球がどのようにして自転を始めたのか見ていましたか。自然科学の法則のすべてをご存じなのですか。
 なすべきことは、ヨブのように自分の無知を知って、すべてを理解できなくてもそう言うものかなと考えて受け入れるべきではないのでしょうか。大切なことは、その答えがなくても、つまり、証拠が完全にそろわなくても、神を信じることは十分できると言うことです。そして神はそう言う信仰を望んでおられると言うことです。キリスト教のことを少しでもご理解されたのであるならば、さらに一歩進んで、疑問を残したまま、神を信じられたらいかがでしょうか。いったん受け入れてしまえば、何の問題もなくなりますよ。


 なお、進化論者のものの考えは、結局のところ、自分を神よりも正しいものする考えです。吉野様のご意見を伺っていて感じるのは、進化論を受け入れる方が「賢くなる」ことだという見方です。それは、まさに悪魔がエバを騙したやり方そのものです。神は食べるなと言った善悪を知る木の実を悪魔はエバに食べさせようとして、食べても「決して死ぬことはない」と断言しました。聖書はこう記しています。創世記3:6「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」
 人は賢くなるつもりで、神の言葉を失い、永遠の命を失い、死を経験するようになりました。進化論も同じです。科学はすばらしいものですが、神に比べれば塵と同じです。その行く先は滅びです。進化論にこだわって、大切な命を失うことがないように、心の目で証拠を見直し、創造論を信じることをオススメいたします。
 

ルール違反  投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年12月27日(木)21時49分44秒
  真意を見極めるために放置していましたが、一応吉野さんの11月18日のご発言に
コメントをつけておきます。
 

よく読むとわかりますが  投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年11月26日(月)12時08分15秒    編集済
  吉野様

斉藤様の10月30日のご発言をよく読むと、そこでは宇宙人がいるともいないとも述
べていません。むしろいるかいないかを問題にしているのではなく、宇宙人がいる
と仮定する科学的論理が天地創造の神の存在を無視する論理と矛盾すると述べてい
るのです。つまり、宇宙人がいるのではないかと疑うことが出来るなら、天地創造
の神がおられることを信じるのは自分を欺かない限りもっとたやすいことであると
いうことです。

宇宙人がいるとした場合、それが聖書の神学と矛盾するかどうかはそれとは全く別
な問題です。また宇宙人といってもそれが天地創造の神と無関係な「宇宙人」は存
在しないと考えられます。サタンは最終時代には品性至らない「宇宙人」を装った
り、死者の霊とか再臨のキリストを装ったりしますので、くれぐれもだまされない
ようにお願いしたい所です。とはいうものの、そういう問題は当掲示板では扱って
おりませんのでよろしくご協力ください。
 

教えてください  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年11月19日(月)21時17分57秒
  吉野様

吉野様がおっしゃりたいことがよく分からなかったので、
できますればもう少し説明していただけないでしょうか。
何が問題なのか理解できなかったものですから。

 創造論者の多くは宇宙人はいないと考えているようですが、私は個人的には宇宙人がいる(より正確には、天使を含め宇宙には地球の人間以外の知的存在が住んでいる)と考えています。根拠としては、「神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになった」(エペソ3:10)をあげることが出来ます。「天上の支配や権威」とは誰を指しているのでしょうか。全知の神は「知らされる」必要がないので、神でないことは確かです。この聖句は地球以外に知的存在があることを示唆していると私は考えています。
 ただ実際に宇宙人がいるにしろ、いないにしろ、それは第一に私の先の発言の趣旨とは無関係ではないでしょうか。第二に宇宙人がいるとすると、なぜ「サタンの試みやイエスの贖いなどが宇宙中無数に発展する」ことになるのか、全く分かりませんので、教えてくださらないでしょうか。私は、地球の人間以外の存在を想定する方が、サタンを滅ぼす正当性や義人を神が救うことをよりダイナミックに説明し、神の愛をより豊かに説明できると思います。


 なお、念のため先の私の発言の趣旨はこうです。進化を信じる科学者が、宇宙人がいると考える根拠が「自然現象や人類が関与した現象でないと証明」された「電波信号」であるならば、同様に決して偶然では出来ないと考えられる生物界における証拠を見るときに神の存在を考えることも、正しい科学のあり方ではないのだろうか。正しくないのなら、天文学と生物学では科学の定義が違っているのではないかという疑問を投げかけたつもりですが、吉野様のご意見は、私の考えは聖書と矛盾すると言うことをおっしゃりたいのでしょうか。
 

馬脚が  投稿者:吉野  務  投稿日:2007年11月18日(日)14時31分40秒
  斉藤さんの宇宙人論こそ下手をすれば際物と思いますが?聖書的に宇宙人とはどのような位置付けになるのか?人の言う信号的な物というなら、人工物群を少し観察すれば判るのですが、その宇宙人にしても「不完全」という事になり、そうなるとサタンの試みやイエスの贖いなどが宇宙中無数に発展する事に繋がりかねず、聖書は破綻をきたす事にもなりかねませんね。
進化論を目の敵にする余り、自らが知らぬ間に自ら子供だましのこの理論に取り込まれているような気もしますね。
自分の父親を名前で呼んだりする人は余り居ないのに、エホバと呼ぶ事を強要している何処かの団体とそう大差無いように見えるのは私だけでしょうかね?
 
    (管理人) 参加する相手を誹謗しないことがこの掲示板に参加できる
最低条件です。上のローカルルールに違反しています。またここは
エホバの証人とかその他の宗教団体を論じる場所ではありません。
こういう発言をすると発言禁止にされる例としてここに無期限で保
存させていただきます。
 

宇宙人探しと創造論  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年10月30日(火)10時05分34秒
  「宇宙人からの信号キャッチ」というニュースが今朝出ていました。

「地球外の知的生命体の探査(SETI)は、各国の主要大学からアマチュアまでがしのぎを削っている。・・・慶応大の青木節子教授(宇宙法)は「日本ではSETIはキワモノのように扱われることがあるが、世界では驚くほどまじめな研究がされてきた」と言う。
 国際天文学連合(IAU)は91年、「地球外生命体から送られたと思われる電波信号についてとるべき行動」という指針を決議。「信号らしきものを発見したら、それが自然現象や人類が関与した現象でないと証明するよう努める」「発見者は関連する国家当局に通報。IAUを通じて国連事務総長に知らせる」とした。http://www.asahi.com/science/update/1029/TKY200710290321.html

 宇宙を研究している科学者は、真面目に宇宙人を捜しているようです。そして、宇宙人存在の証拠は「自然現象や人類が関与した現象でないと証明」された「電波信号」だと考えているようです。

 私は自然界を眺め、DNAの働きを考えると、私はそこに何らかの知性を感じます。こんなに上手くできているものが、自然現象で出来るはずがないと感じるのです。生命の起源を考えるとき最初の生命は「自然現象や人類が関与した現象でないと証明」されているように思えます。しかし、偶然の積み重ねで奇跡的に生命が誕生したと考えることが科学であり、神が創造したと考えることは科学ではないと進化論者たちは言います。もし、それが科学の正しいあり方であるならば、天文学者たちが宇宙人を捜すことも非科学的なことになるのではないでしょうか。自然現象とは考えられない電波信号があれば、それは宇宙人が作ったものと考えるのですから。もっとも進化論者の手にかかれば、どんなに知性を感じさせる電波信号があったとしても、それは長い時間をかけて自然に出来たものだと主張し、かたくなに宇宙人を否定するかもしれません。

 自然現象ではあり得ないものがあるとき、神の存在を考えることは生物学では一切認められないが、宇宙人がいると考えることは天文学では認められるのであるならば、「科学」という定義が分野で異なっていることになるのではないでしょうか。進化論者の主張は本当に正しいのか、考え直す必要があります。

 宇宙人捜しが日本では「キワモノ」扱いされているという発言がありましたが、進化論しか教えられていない日本人なら当然の結果かもしれません。日本を除く世界の天文学者の土台には創造論があることを、この新聞記事は示しているようです。
 

斉藤先生  投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年 8月20日(月)00時19分26秒    編集済
  有難うございます。早速参考に致したいと思います。  

GRIの創造論会議  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 8月19日(日)13時38分58秒
  8月13日から16日まで、中国の昆明市で行われた「創造論、信仰、科学会議」に出席してきました。主催はGeoscience Research Institute(GRI)の北アジア太平洋支部です。
GRIについて詳しいことは、下記のリンクを見てください。創造論の資料が無料で手に入ります。写真はもちろん、パワーポイントの資料もあります。

 http://grisda.org/

 会議に出席したのは全体で80名近く、そのうち日本人はわずか7名で、ほとんどが韓国人でしたが、北アジア太平洋支部なのだから、当然の結果です。会議では、現地調査とGRIの講師による講義が行われました。創造論の科学的証拠をいろいろ学んできましたが、全体としては、これまで、このサイトで主張してきたものと同じでした。

 たとえば、類似性が共通祖先の存在を証明しないこと(共通の設計者の存在を物語る)、カンブリア紀の生物大爆発は進化の証拠にならず最初から多様な生物がいたという創造論の証拠になること、ヒトがサルと共通の祖先を持つというのは、あくまでひとつの考えに過ぎず、それを明確に証拠づける化石は実はひとつも無いこと(例:かつてヒトの祖先といわれたアファレンシスのルーシーはヒトの祖先からはずされた)、新種の形成に長い時間がかかる必要は必ずしも無く、わずか30年で新種が登場した例があること、化石の記録は地球規模で大量絶滅が起こったことを示し、すべての大陸で海洋生物の化石が見られることからも、地球規模の洪水が起こったと考えることが合理的であることなどを学びました。

 進化論の主張が一般に信じられているほど、根拠が無いものであることを深く学べたことが感謝です。進化論者が主張する「証拠」とやらで、絶対確実だというのはどれだけあるのでしょうか。創造論者は進化論者と違うデータを示しているのではなく、ただ解釈が違っているだけのことです。前提が違えば、同じデータでも違う解釈になります。進化の証拠とされるものが、逆に創造の証拠にもなりえるのです。創造論科学者の存在をはじめ、創造の証拠がたくさんあることをなぜ進化論者はかたくなに否定するのでしょうか。真の科学者であるならば、前提を変えることは恥ではないはずです。

 進化論者が「進化は事実だ」という前提を捨てようとしないのは、進化論が科学ではなく、まさに信仰そのものである証拠ではないのでしょうか。
 

メディア  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 7月24日(火)12時34分56秒
  こんな記事を見つけました。
http://www.worldtimes.co.jp/special2/id/060605.html

IDの活動を述べたもので、IDと創造科学の立場は全く同じというわけではありませんが、反進化論と言う点では同じ立場だと私は考えています。

これによると、ID運動の総本部、ディスカバリー・インスティテュートは
「ダーウィニズムに異説を唱える科学者」リストをつくりました。

以下引用

皆博士号を持っている科学者五百十四人。タイトルの下には「生命の複雑さがランダムな変異と自然選択で説明できるとする主張にわれわれは懐疑的だ。ダーウィン理論を支持する証拠についての注意深い研究が行われるべきだ」と付記している。

 分野別では生物学百五十四人、化学七十六人、物理学六十三人。リストの初めには、ペンシルベニア州立大学のフィリップ・スケル名誉教授(化学、米国科学アカデミー会員)、ノーベル賞に何度もノミネートされているヘンリー・シェーファー計算量子化学センター所長、ニューヨーク市立大学のスタンリー・ソウルス名誉教授(進化生物学)らが並ぶ。

 ポーランド、ロシア、ハンガリーの科学アカデミー会員のほか、大英博物館(自然史)客員学者も名を連ねている。

 署名の数は同インスティテュートが二〇〇一年に初めてリストを作成した際の百人余りから大幅に増加。リスト署名の条件に「ID支持」は含まれていないが、「IDに好意的な科学者はますます増えてきている」(同インスティテュートのジョナサン・ウェルズ博士)。

  引用終わり

進化論=ダーウィニズムではないと進化論者と言うかもしれませんが、大まかに言えば上のリストは反進化論の科学者のリストと言うことになると思います。かのリチャード・ドーキンスは「悪魔に仕える牧師」(早川書房、387ページ)の中で「しかるべき資格を持つ科学者で、進化が事実であることを、地球が太陽の周りを回っているのを事実であるとするような通常認められている意味で、疑う者はおりません」と断言していますが、このリストは彼の発言が誤っていることを示すのではないでしょうか。

 大切なことは、進化論に疑問を感じ始めている科学者が今増えているということです。進化論の根拠とされる証拠が、実はねつ造されていたものだったということを知れば、それは
当然のことです。真面目な科学者ならば、進化論に疑問を持ち、いずれは創造論側に立つでしょう。

 残念なことは、日本のマスコミがあまりにも進化論を盲信していることです。私は67年前の戦中のマスコミを連想します。負け戦にも限らず、勝った、勝ったと国民を騙し続けた新聞、ラジオのように、今のマスメディアは「進化論こそ正しい、正しい」と国民を騙し続けているのではないでしょうか。当時と違って、検閲がないのですから、もっと真実を伝えるメディアが現われても良いのではないでしょうか。いきなり創造論を支持することはできなくても、もう少し進化論に批判的な記事が多数出てきてもいいように思います。少なくても、進化論批判の動きは、もっと報道されてもいいと思います。なぜなら、それが世界の最新のホットニュースだからです。

 考えてみれば、インターネットの急速な普及も神様の摂理だと思います。これがなければ、日本で創造論を普及させるのはもっと困難だったでしょう。今はインターネットのサイトが真実を伝える代表的なメディアとして活躍しなければなりません。もっと多くの方が、真実を知り、真実を語る必要があると思います。特に、クリスチャンにとって創造論を語ることは、創造主なる神を語ることにもなり、伝道につながります。日本にもっとキリスト教を広めるために、創造論を語りましょう。
 

科学教育とキリスト  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 6月10日(日)21時21分31秒
  初めに私はこう書きました。

「良心と教師たちに与えられている偉大な働きは、保護している子供達や青年たちの品性を形作って、キリストの像を回復することです。科学の知識は、この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります。しかし、真の教育は、正しい品性の発達を助けます。・・・自分たちの将来だけではなく、与えられている子供達が永遠の命を得るか、あるいは永遠に失われるかを自分たちが決定している事実に気づくならば、大きな挑戦が目の前に置かれていることを悟ります。」エレン・ホワイト著「次世代に続く信仰」p55

この文章から吉野様とのやりとりが始まったのですが、吉野様との考え方の違いの原点は結局のところ、イエス・キリストをどう見るかということに行きつきます。聖書はこうあります。これを言ったのはパウロという人です。
「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリピの信徒への手紙3:8-9

 ホワイトの言葉は、このパウロの言葉の延長上にあります。ホワイトの言葉を言い換えると、「キリストを知ることに比べたら、科学を学ぶことは塵あくたと同じだ」となるでしょう。これに賛成するか反対するかは、イエス・キリストを知る価値がどのくらいのものかという価値判断によります。素人の目には高価なものに見えても、専門家が見れば真っ赤な偽物で安物という場合があります。その逆もあり、専門家が高い評価を下しても、素人の目にはごみ同然と映ることもあります。聖書に基づく創造論を受け入れる人びとは、科学の専門家ばかりではありませんが、イエス・キリストの価値を知っている人びとです。ですから、イエス・キリストをどう評価するのかはとても大切なことになります。創造論は聖書と切り離して論じることはできません。イエス・キリスト抜きの創造論はありません。したがってたとえ創造論を論じても、イエス・キリストが語られなければ創造論も塵あくたと同じ事です。

 吉野様に限らず、創造論は疑似科学だと思いこんでいる方々に、創造論から目を離しイエス・キリストについて改めて考え直していただければと思います。イエス・キリストのすばらしさがわかれば、創造論についても理解でき、信じることができるようになると思います。
 

吉野様へ 3  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 6月 2日(土)18時46分49秒
  >>科学教育そのものが無意味だといっているのではなく、「この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります」と言っているだけです
>二極論で言えば「無意味である」ということですね。

そうですね。たとえば、呼吸が止まった人に対して人工呼吸をしようとすることに比べれば、科学教育をしようとすることは全く無意味だと思います。吉野様は人工呼吸するよりも意味があるとお考えなのでしょうか。

>字義通りにとるならば、キリスト教以外の一切の宗教は捨象されるべきだということですか?

 まず、創造論はキリスト教だけではありません。イスラム教でも天地創造が教えられています。宗教云々と言うよりも、事実を追求するとそうなると言うだけです。「創造論教育」に限らず、あらゆる教育の、またあらゆる人生の目標はイエス・キリストによる罪からの救いを伝え、キリストの力による品性の向上を図り、よりよい社会の形成することではないでしょうか。

>「聖書」の記述に反する「自然科学」の観測結果は全て否定されるべきだ

「自然科学」の観測結果をすべて否定しようとしているのはむしろ進化論の方ではないでしょうか。私の理解は、現在の観測結果には進化論に有利なものも創造論に有利なものもあるということです。そして、総合的考えて、進化論よりも創造論の方が観測結果の解釈に有効だと私は判断しました。しかし、多くの進化論者は、観測結果は「すべて」進化論に有利であるかのように主張されていると思います。吉野様は創造科学研究者の研究をどのくらいご存じなのでしょうか。きちんと調べられたことがございますか。
 創造論に基づく主張でも、十分説明可能であるのに、それを頑として一切認めないところに、私は進化論が科学ではなく「宗教」となっている部分を感じます。

>品性の涵養が聖書の教えによってのみ為されるものであるとは思いませんし、

同意いたします。仏教であろうと、神道であろうと、品性の涵養は可能だと思います。ただ、私は、善は唯一であって、それはイエス・キリスト以外にはないと思います。つまり、仏教の教えであってもその奥には、イエス・キリストが示されているのであり、究極的には聖書の教えに従うことになると思います。


>「自然科学はこう教えているが、私は心情的には創造論が正しいと思う」、とすることは個人の自由の範疇です。

 創造論者ならば、このような理解はしないと思います。自然科学は進化ではなく、創造を支持するからです。したがって、「進化論ではこう教えているが、自然科学を学び自分で考えた結果、私は創造論の方が真実だと判断する」となるのではないでしょうか。「心情的には」ではなく、「事実だから」あるいは「より合理的だから」創造論を支持するのです。


>盲信は「思考停止」です(「自然科学」を盲信することも同様ですが、「科学」の本質が疑ってかかる事であるというのは以前に述べたとおりですから、「盲信」した時点でそれは正しい意味で科学ではありません)。

 おっしゃるとおりです。創造論者は進化論を盲信することから脱却した、科学を真に学ぶ人びとです。

>自然科学ではどうやっても実証出来ないことではありますが、

神は科学の対象にはならないので、実証できません。しかし、科学で実証できないから、それが真実ではないとは言えません。神は科学ではなく信仰でとらえるものです。だからこそ、科学者もニュートンのように聖書の学びを深くする必要があります。
真の科学と聖書は必ず一致します。神は自然界を通して人が神を発見できるように造られたからです。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」ローマ1:20
 そして、もし一致しないように見えるのならば、科学ではなく聖書を取るべきだと私は考えます。それは盲信ではなく、過去の歴史のおいて、誤りの連続だった科学よりも誤りのなかった聖書を受け入れることが理にかなっているからです。


>自然科学の成果を利用することで多くの命を支え、永らえさせることに貢献できる方が嬉しいと申し上げたなら

大変すばらしいと思います。ご活躍をお祈りいたします。

吉野様が命や人生の目的などについて真摯に考えてくださったことを感謝いたします。
人生の目的は進化論の世界観ではいくら探しても出てきません。創造論の世界観、つまり、聖書の世界観をご自分の目できちんと調べられると、創造論の主張がご理解されるのではないかと思います。

 短くまとめようと思いましたが、できませんでした。ここまでお読みくださりありがとうございました。

 最後に、クリエーションリサーチのニュースによると、数日前にアメリカで創造論に基づく大規模な博物館が完成したようです。これを機に、創造論はさらに拡大することでしょう。
 http://www.sozoron.org/home/
 

吉野様へ 2  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 6月 2日(土)17時45分54秒
  >生きようとする意志が「強いか弱いか」が問題なのではありません。
「有るか無いか」が問題だと申し上げたつもりです。

 それでは、表現を変えてお聞きします。進化論に基づくと、生きようとする意志のある者だけが生き残るので、自殺者のでない社会を作るには、一度自殺したい人はみな死んだらいいということにはならないでしょうか。

>自殺者は「社会に適応する努力を自ら怠った怠け者」ではなく
「社会に適応する努力を自ら放棄した逃避者」だと思う、と申し上げております。

 両者の違いが良く理解できませんでしたので、もう少し詳しく説明していただけると助かります。「怠ける」のではなく「逃げる」というのはどういう事なのでしょうか。


>動物に知性が無いと断言する根拠はなんでしょう?

私は「神を認める知性」と書きました。動物が神を礼拝するとは私は思いません。


>「本能よりも理性が優先します」というのは、
本能だけでは「生きる意志」を持ち続けることができない
=理性が「生きる意志」を損なう、あるいは「生きる意志」を失った「理性」が「自殺」という行動を促すという意味に聞こえます。
それとも、「特別な生きる目的なしに生きることは動物と同じだから意味の無い生だ」
と仰せなのでしょうか。

両方とも言えると思います。生存本能がまさっていれば自殺など起きるはずがありません。
また、生きる目的を知らないことは、人間には特別に生きる目的を知る力が与えられていると考える上からは、動物と同じで人間として生まれた意味がない事になるのではないでしょうか。ここでも「人間とは何か」という定義が大事になります。



>「生きる意志」とは「生存本能」に等しく、
そしてそれこそが文字通り神に与えられたものといえるかも知れない、と思います。

本能は進化によって獲得してきたものであると証明されない限り、何物かによって初めから与えられたものと考えるべきだと思います。

>それが神に与えられようと、あるいは与えられたものだと気づこうと、自分で見出そうとどちらでも構わないと思っています。
いま生きている瞬間にそれが存在しているのだということに気づくことが重要なのであって、その筋道やテキストは問題ではないと思います。

 命が神によって与えられたものか否かは、大きな問題になるのではないでしょうか。なぜなら、それは一つには命に対する感謝の大きさに影響を与えます。「自分は生かされている」と感じる人は、「自分は生きている」と感じる人よりも、命を感謝し、命をいつくしむ度合いが大きいのではないでしょうか。また、なぜ死ぬべき自分がこうして生かされているのかを考えることによって、生きる目的についても、より深く考えるのではないでしょうか。そして何よりも、論点が違うとおっしゃっいましたが、死刑判決を受けた極悪人のような生きる意味を見失った人にとっては、神の存在は大きな慰めになるのではないでしょうか。周囲の人から死ねと言われても、神は生きろと言っているから、自分は生きて良いのだと、生きる意志を持つことができるようになると思うのです。創造論では、生きる意志のないところに生きる意志を与えることができます。しかし、吉野様のご意見に従うならば、生きる意志がない、あるいは失ったところでは、どんなに注意深く探したところで、生きる意志を見つけることができないのではないでしょうか。気がつけと言われても、所詮ないものはないので、もし気がつくとすれば、自分には生きる意志がないと言うことに気づくだけではないのでしょうか。


>柳沢大臣のことでしょうか?しかし「子供を産まない女性には生きる価値がない」などという発言は無かったと記憶しますが・・

 ご指摘の通りで、大臣はそこまで暴言を言ったわけではありません。ただ、「子供二人持つことは健全」という発言はしており、その奥に潜む思想(子供産まないのは不健全→産めない女性は〜)を私が拡大したものです。

>私の命が誰か他の命を育むため、あるいは新しい命を産み出すために直接間接を問わず役立つなら生きる意味は十分にあるというような意味です。

 そういう意味なら意味は少しはあるでしょう。しかし、本質的な点において、命を持つだけで、他との関係なくてもその命の意味がなければならないと私は考えます。吉野様の主張に従えば、絶滅動物の最後の一匹の命は価値がないことになりませんか。

>逆に命を次の世代につなぐことが出来ないのなら、現在の生にどのような意味があるでしょう。

 生きることそのものに意味があります。命を与えられた神を愛し、神に感謝することを神は喜ばれます。それゆえにどんな命にも意味があります。

>>人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違い

>これは本質において同じ、と考えております。
>価値の無い人間〜は存在しないと思っています。

ゴキブリを殺すことと人を殺すことが本質的に同じと考えておられるのであるならば、価値のない人間は存在しないと言う以上、価値のないゴキブリもいないという事になるのではありませんか。そして、価値のあるゴキブリを殺すのは、人間のエゴだという解釈でよいでしょうか。吉野様が何を理由に価値のない人間はいないとお考えなのか、もう少し教えていただけないでしょうか。

>その行為の是非はまた別の次元の話です。
両者の行為が本質的に同じならば、あえて別次元の話にする必要がないのではありませんか。同じ土俵の上で論じることができるのではないでしょうか。また、別次元の話として、そこにもし倫理を持ち出すのであるならば、善悪の基準はなんなのか、それを誰が決めるのか、論じる必要があると思います。絶対者の存在を認めない進化論にもとづけば、別次元の話にしても、相対的な善悪論にしかならず、本質的に同じ事になるのではないでしょうか。


>これまでの歴史において「価値の無い人間の命を奪っていい」と言ってきたのは「宗教」であったかと思います。

 「宗教」の名をかたった人間のエゴだとおもいます。

>「進化論(あるいは自然科学)が人の命を奪うことを是としているわけではない」ということはご承知いただけますか?

 進化論が、ゴキブリの命を奪うことと人の命を奪うことが本質的に同じだと主張するのであるならば、害虫駆除を正しいことと考える人にとっては、人の命を奪うことも正当化する理由付けになるのではないでしょうか。
 自然科学は人の死を是とはしませんが、進化論は是とするのではないでしょうか。
 

吉野様へ 1  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 6月 2日(土)08時40分57秒
  お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。


>「大人たちが、子供たちの品性の健全な成長を阻害しかねない現状」を変えるには
まず自分自身が少しでも、との思いはあります。

私の誤解のようでした。安心いたしました。


>いずれにしても生命の起源についてはまだ定説と言える「科学的理論」は存在しておらず、自然科学としては殆ど謎のままと言っていいものと認識しています。

私の知る限りでは、生命の起源についての説明はどれも一言で言うならば、「奇跡」によるものです。確率的には、決してあり得ないことが起きたからです。もし、奇跡を受けいるれるならば、奇跡を起こす存在を認める方がはるかに合理的な考えなのではないでしょうか。生命の起源は謎だとお認めになりながら、吉野様が創造論を完全に否定されるのは、多くの人が言うように、創造論が反証不能の神を前提に話を進めるからですか。
 もし、そうであるならば、「科学」とは何かという定義の問題を考えなければなりません。近代科学の父と呼ばれるニュートンは敬虔なクリスチャンであり、神がこの世界を造ったという意識の下に、自然を研究し、万有引力を発見したことは既知の事実です。ニュートンに限らず、進化論が登場する以前は、ほとんどの科学者が創造論を受け入れていたといって良いでしょう。つまり、神という反証不能なことを前提とした科学者たちによって、近代科学は発展してきました。神を前提とすることになんの問題もなかったのです。さらにいえば、この神を前提とする考えによらなければ、近代科学は進化できなかったとも言えます。この世界が合理的に説明できるのは、合理的に神が創造したためであると、彼らは考えたからです。
 しかし、ダーウィン以後「科学」の定義が急速に変わりました。進化論を認めるためには、神は邪魔者となったからです。科学が神を追い出したのではなく、進化論が神を除いたのです。

>「神によって創造されたという創造論を積極的に否定している」のではなく、
「創造論が自然科学的に正しいとすることを否定している」のだと認識します。
「創造主を前提とするわけにいかない(というよりしていない)」というのはその通りだと思いますが、それが直接的に「神の存在の否定」ではないと認識しております。

 これも「科学」とは何かという定義によるのではないでしょうか。また。「神」の定義にもよります。私のような聖書を文字通り信じるものの「神」理解と、吉野様を初めとする進化論者の認める「神」とは大きく異なります。ですから、進化論者が創造論者と話すときには、もっと宗教を学ぶ必要があると思います。創造論者は進化論を誤解しているので、進化論を正しくきちんと学んでほしいというようなことがしばしば言われますが、創造論者に言わせれば、進化論者にももっと聖書を正しく理解して欲しいと願っています。

>自然科学は対象範囲を明確にするものです。神(創造主)は自然科学の対象範囲の外におわしますので。

 神は科学の対象外にいるというご指摘はその通りです。しかし、それゆえに、神を前提にすると科学ではなくなると言うのであるならば、近代科学の成立を説明することは不可能です。進化論者のご意見は、科学の歴史を無視した説明ではないでしょうか。


>ですから進化に「神の意思」や「神の目的」がある、という「お話」を否定する気はありません。「科学的な理論」としては不完全(というより不成立)だというだけです。

 私にとっては、神の意志も目的も明確な事実なので、「お話」ではありません。事実に基づくことなので、科学の対象になると考えているのです。

>「お話」がそれとして成立するために科学は必要ないでしょう。
そして自然科学からすれば、事実として範囲外です。

個々が本質的な理解の違いですね。創造論者は、「事実」としてとらえているので、科学なのです。ニュートンたちも、「お話」ではなく「事実」として創造を受け入れていました。吉野様の考えによるならば、ニュートンらは科学を研究したのではないことになります。

>申し訳ありませんが、宗教論争をすることは私の意図するところではありません。
私が言いたいのは「自然科学」と「神への信仰」が必ずしも互いを排斥するものではないということです。

宗教論争をしようとは私も思いませんが、「科学」と「神への信仰」を論じようとするならば、宗教を学ばなければできないと思います。聖書をきちんと学ばずに、創造論を批判する進化論者は、進化論を自分の勝手な思いこみで否定する創造論者と同じことではないでしょうか。聖書を学ぶ気はないとおっしゃるのであるならば、それまでですが、せっかくの機会ですので、お近くの教会で聖書を学ばれることを私はお勧めいたします。
 

斎藤様へ res3  投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月28日(月)21時07分34秒
  >>「自然科学教育は人格形成に無意味である」との意見には賛成できないと考えます。

>科学教育そのものが無意味だといっているのではなく、「この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります」と言っているだけです

二極論で言えば「無意味である」ということですね。

>科学教育を受けることで、聖書を否定し、神を信じなくなるくらいだったら、やる意味が無いということです。
>それが魂をイエス・キリストから引き離すのであれば、何の意味も無く、やらないほうがずっとましだということです。

これは字義通りにとるならば、キリスト教以外の一切の宗教は捨象されるべきだということですか?
それが「創造論教育の目標」である、ということならば私はそれには賛成できかねます。
また、「聖書」の記述に反する「自然科学」の観測結果は全て否定されるべきだ
(宗教による科学の排斥は是である)というお考えであれば、私はそれを容れることはできません。

先にも述べたとおり、「子供達や青年たちの品性を形作」るために、「自然科学」とは別に多くのものが必要だということはそのとおりです。
そのひとつとして聖書の創造の物語があるという考えには何ら反対いたしません。
聖書を学んでキリスト教に入信し、神による創造を語るのは自由です。
そのなかで自分の人生の目的を見出し、目標を定めて、「正しくあろう」と生きることは立派で素晴らしいことであろうと理解します。
ただし、それと同様の、品性の涵養が聖書の教えによってのみ為されるものであるとは思いませんし、
何れを人生の拠所とするかは自分の意思で、自らの思考思索の帰結としてあるべきだと思います。
また同時に、宗教や哲学・思想は人の内側、自然科学は人の外側の世界にあるものであり、
内と外それぞれ別の次元に両立してこそ意味があるものだと思います。
であるからこそ、外の世界に対する正しい態度としての「自然科学」教育は必要だと思います。
「自分で考え」た結果として、
「自然科学はこう教えているが、私は心情的には創造論が正しいと思う」、とすることは個人の自由の範疇です。
が、盲信は「思考停止」です(「自然科学」を盲信することも同様ですが、「科学」の本質が疑ってかかる事であるというのは以前に述べたとおりですから、「盲信」した時点でそれは正しい意味で科学ではありません)。

>こうした理解は、人はみな死後神の裁きを受けて、永遠の命を得るか、永遠の滅びを受けるかのどちらかだという考えからきています。この世の命ははかないものですが、神が約束している命は永遠です。

それはキリスト教の教義であり「キリスト教における真理」ですね。
そのことは自然科学ではどうやっても実証出来ないことではありますが、
だからといってそれが無意味・無価値だなどとは言いませんし、
そんなことを主張する科学者は多くない筈だと確信します。

>この栄誉を得ることに比べれば、ノーベル医学賞などはごみ同然です。

それもひとつの価値観であって、斉藤様がそうお考えになっていることはわかりました。
私が、そのような栄誉はべつに欲しくは無くて、
それに比べれば自然科学の成果を利用することで多くの命を支え、永らえさせることに貢献できる方が嬉しい、
と申し上げたなら誹られるかもしれませんが、そのような考えがあることもご理解いただけましょうか。

 私は私なりに、教育の目的や人間の命について、また人生の目的について考えて来ました。
申し訳ありませんが、斉藤様のお考えとは聊か異なる考えであるようです。
こちらに来て自分の考えをかたちにするいい機会をいただけたと思います。
私にはまだ明確な答えと言えるものはありません。
これからもこの問題について考えていくことになるでしょう。
今回、斉藤様のお考えに触れられたことは私にとっては有意義であったと思います。
こちらから一方的に押しかけて長々と書きこんでしまい、
またこの掲示板のローカルルールに大きく抵触してしまったのではないかと恐縮しております。

>創造論者が進化論になぜ反対するのか、創造論教育の目標がどこにあるのかなどを理解していただければ幸いです。

これからも考え続けて参ります。
 

斎藤様へ res2  投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月28日(月)21時04分16秒
  申し訳ありませんが、宗教論争をすることは私の意図するところではありません。
私が言いたいのは「自然科学」と「神への信仰」が必ずしも互いを排斥するものではないということです。

>ダーウィンは〜聖書の記述は誤っていると考え、聖書の述べる6日間の創造を否定するようになりました。

ダーウィンの聖書に対する考えは存じません。
ですから6日間の創造を否定した背景にそのような考えがあったかは、現時点で私にはなんとも判断のしようがありません。


>進化論に基づくと自殺者が増えたほうが、より生きようとする意志の強いものだけが生き残り、競争社会に適応した勝者が増えてよい、となるのではないでしょうか。

それは誤解です。
生きようとする意志が「強いか弱いか」が問題なのではありません。
「有るか無いか」が問題だと申し上げたつもりです。

>自殺者は、社会に適応する努力を自ら怠った怠け者であって〜淘汰されて当然だということになるのではないでしょうか。

自殺者は「社会に適応する努力を自ら怠った怠け者」ではなく
「社会に適応する努力を自ら放棄した逃避者」だと思う、と申し上げております。
淘汰されたわけではなく、自分から逃げたのだと
(自殺者に対して過酷な言い方であることは認識しています。
誤解の無いように願いたいのですが、死んで当然などとは思っておりません)
まして進化論はそのようなことをいってはおりません。

>「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。

>人間だけが、生きる意志をなくすのはなぜなのでしょうか。
>神は人間にのみ、神を認める知性を与えられました。動物は意思というよりも本能によって、生存しようとすると思います。しかし、人間は本能よりも理性が優先します。

余談ですが、動物に知性が無いと断言する根拠はなんでしょう?
我々が理解する知性とは違うかたちの知性が存在する可能性を否定しなければならない理由がわかりません。
「本能よりも理性が優先します」というのは、
本能だけでは「生きる意志」を持ち続けることができない
=理性が「生きる意志」を損なう、あるいは「生きる意志」を失った「理性」が「自殺」という行動を促す
という意味に聞こえます。
それとも、
「特別な生きる目的なしに生きることは動物と同じだから意味の無い生だ」
と仰せなのでしょうか。


誤解を懼れずにいわせていただけるならば、
「生きる目的を失った」という甘えた理由(そしてそれは、往々にして思い込みに過ぎない)で死を選ぶ(あるいは死を望む)というのは、
確かに人間だけといっていいかと思います。
私などは、斉藤様がおっしゃるとおり、「生きる意志」とは「生存本能」に等しく、
そしてそれこそが文字通り神に与えられたものといえるかも知れない、と思います。


>どのように「死ぬな。生きる意思を持て」「生きる価値がある」と言えばいいとお考えですか。

「生きる意志を持て」は「生きる意志に気づけ」と言い改めさせていただきましょう。

>創造論においては、本人がいかに生きようとする意思を持つかは問題でありません。その意思が無くても弱くてもかまいません。生きる意思は彼を目的を持って作られた創造主によって、与えられるものだからです。

私はいかに「生きようとする意思を持つ(意志に気づく)かこそが重要だ」と思っているということです。
それが神に与えられようと、あるいは与えられたものだと気づこうと、自分で見出そうとどちらでも構わないと思っています。
いま生きている瞬間にそれが存在しているのだということに気づくことが重要なのであって、その筋道やテキストは問題ではないと思います。
生きている限り、人は変わることが出来るのですから。
(「死刑判決を〜」云々は問題がまったく別、論点が違いますよ。)

>>最初の生命から今の自分まで、〜無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?

>命をつなぐことに生きる意味があるというのであるならば、〜子供を産まない女性には生きる価値がないということになるのではありませんか。

柳沢大臣のことでしょうか?しかし「子供を産まない女性には生きる価値がない」などという発言は無かったと記憶しますが・・よろしければ何方の発言かお教えください。
「命をつなぐ」というのは子を産むという意味合いもありますが、私の中ではもう少し大きい意味で捉えています。私の命が誰か他の命を育むため、あるいは新しい命を産み出すために直接間接を問わず役立つなら生きる意味は十分にあるというような意味です。
逆に命を次の世代につなぐことが出来ないのなら、現在の生にどのような意味があるでしょう。

>人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違い

これは本質において同じ、と考えております。
どちらも究極的には人のエゴによるものだと思いますので。
もちろんその行為の是非はまた別の次元の話です。

>価値のない人間の命だって奪っていいはずだ

価値の無い人間が存在するのなら、そう言うことも出来るかもしれません。
しかし私はそんな人間は存在しないと思っています。
誤解を懼れずに申し上げるなら、
これまでの歴史において「価値の無い人間の命を奪っていい」と言ってきたのは「宗教」であったかと思います。

>人の命を奪うことがいけないのか、進化論に基づく納得いく説明を私は知りません

そんな説明は存在しません。
進化論にそのような説明が必要であるとも思いません。
「進化論(あるいは自然科学)が人の命を奪うことを是としているわけではない」ということはご承知いただけますか?
 

斎藤様へ res1  投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月28日(月)20時59分50秒
  >>「学校」がどこまでそれを行うべきかについては、自ずと限界もあろうかと思います。むしろ「教師」がそれをするのではなく、「大人」たちが行うべきかと思います。

>肝心の「大人」たち自身が問題だということです。「大人」も頼りにはなりません。

>教育にかかわる「大人」としては少し無責任であるように感じました。



「大人」は須らく「先生」でなければならないと思っています。
ですから「大人」たちが行うべき、というのは
自分も含めて「大人」が責任を果たさなければならいのだ、
という自戒を込めて申したつもりです。
「教師」に押し付けて済む問題ではないと考えております。
「大人」が頼りにならないのは悲しむべき現実ではありますが
悲しんでばかりもおれません。
「大人たちが、子供たちの品性の健全な成長を阻害しかねない現状」を変えるには
まず自分自身が少しでも、との思いはあります。
私も「大人」で「先生」なのですから。
これも奇麗事ですか?

同世代の友人たちともよく語り合いますが、
「大人」たらんとする悩みと非力ながらもの苦闘を吐露しつつ、
僅かずつでも前進を心がけているつもりでおります。

「善悪を判断するときは、必ず自分で考えろ」、とは言うでしょうね。
ただ「行動する前に相談しろよ」とも付け加えて言うかな。
少なくとも「勝手にしろ」とは言いません。



>進化論は沈黙しているというのであるならば、生命の発生について述べている理論は、創造論しかないということなのですか。
>創造論のみが、生命発生についての唯一の説明であると理解してよろしいのでしょうか。
>私の理解では、一般には広義の意味での「進化論」において、生命の発生についても述べているとおもっていましたが

確かに「化学進化」では、「理論」として生命の発生について述べていますね。
これを「進化論」のうちに含めるかどうかは諸説あるところですが、
いずれにしても生命の起源についてはまだ定説と言える「科学的理論」は存在しておらず、
自然科学としては殆ど謎のままと言っていいものと認識しています。
「創造論」は生命の起源について述べていますが、科学的な「理論」でも「仮説」でもありません。


>>「進化論」が神による生命の創造を積極的に否定したことはありません。

>ドーキンスをはじめ現代の多くの進化論者は、神によって創造されたという創造論を積極的に否定しているのではありませんか。
>進化論自身、「科学」であるために創造主を前提とするわけにはいかないので、積極的に神を否定していると思います。

「神によって創造されたという創造論を積極的に否定している」のではなく、
「創造論が自然科学的に正しいとすることを否定している」のだと認識します。
「創造主を前提とするわけにいかない(というよりしていない)」というのはその通りだと思いますが、
それが直接的に「神の存在の否定」ではないと認識しております。
斉藤様をはじめとする此方の皆様にとっては同義かもしれませんが、
私からすれば本質的な違いであると思えます。
自然科学は対象範囲を明確にするものです。神(創造主)は自然科学の対象範囲の外におわしますので。


>>「生きる意志」が進化の原動力となって〜ヒトという種を生み出したのだと思います。
>>私は「進化」は「生きる」ことを目的とした生命の作為であり〜

>「意思」とか「目的」とか、普通の進化論者なら決して口にされない言葉をおっしゃられたので、驚きました。
>職場で批判され、お仕事に支障がでないかと心配いたします。

お気遣いいたみいりますが、「意思」とか「目的」とかというのは私の「思い」であって、
「科学的理論」などではありませんし、私はこのことを以って「理論」構築するつもりもありません。
私は科学的な議論の場でそのようなことを述べるつもりはありませんが、雑談としては
そのような「考え方」もあっていいのではないかと思っているということで、「お話」として話すのです。
ですから進化に「神の意思」や「神の目的」がある、という「お話」を否定する気はありません。
「科学的な理論」としては不完全(というより不成立)だというだけです。

>「意思」が進化の原動力というのであるならば、「神の意思」や「神の目的」も考えてもいいのではないのでしょうか。
>それらはすべて、人間の幸福のためであったと考えることはできないでしょうか。

先に述べたように、そのような「お話」で「生きる意味」を見出せるなら、それとして有意義だと思います。
「お話」がそれとして成立するために科学は必要ないでしょう。
そして自然科学からすれば、事実として範囲外です。
同時に、そのような「お話」が出来ないから「進化論」が無意味とは思わないのです。
 

吉野様へ 2  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月24日(木)00時13分53秒
  >生命の発生については進化論の対象外です。したがって「神による生命の創造」と「進化」を全く抵抗無く受け入れる人は少なくないはずです

 最初の生命こそ神が創造したが、その後は46億年の進化によって生命は多様になったと主張する有神論的進化論者の存在は存じています。数の上から言えば、少なくないどころか、私のような文字通りの6日間での創造を信じるものよりも多いと思います。しかし、私は彼らの主張は、聖書から見て明らかな誤りだと考えています。その理由は、このHPで何度も書いていることですが、有神論的進化論は、イエス・キリストが人間が犯した罪をあがなうために十字架で死んでくださったという聖書の言葉を完全に否定するからです。進化論によれば、人類登場以前に他の生物の死があります。聖書によれば、死は罪の結果です。したがって、人類以前の死は、最初に罪を犯した生き物は人間ではないということを意味します。それは、キリストは、人間の侵した罪のためではなく、他の生き物、たとえば魚の犯した罪のために死なれたことになってしまいます。しかし、これは聖書の内容とは異なります。有神論的進化論者は、進化論を受けいるために、聖書の解釈を変えてしまいました。彼らの述べる神は、「創造主」ではあっても、「愛の神」ではありません。争いと死と滅亡とを良しとする「冷酷で残酷な神」です。

 ダーウィンは、もし聖書のとおりならば神は愛であるから自然に残酷なところはないはずだ。しかし、実際には多くの残酷なものがあり、それゆえに愛の神はいない、聖書の記述は誤っていると考え、聖書の述べる6日間の創造を否定するようになりました。進化論は、死を前提とする以上、神の愛をも否定するのです。

 吉野様に知っていただきたいことは、有神論的進化論者が認める神は、聖書を文字通り信じる創造論者が考える神とは、別物であるということです。聖書を深く学ばなければご理解できない部分かもしれませんが、人間のために命を捨てる愛の神と進化論とは決して両立できないということを知っていただければ幸いです。

>自殺に走るということは社会に適応できなかった結果ということはできるかもしれませんが、社会の不適者=敗者では無い様に思います。

 敗者でなければいいのですが、現実にはどうでしょうか。私にはきれいごとを言っているように思います。吉野様ご自身がおっしゃるように「自殺しようとした」と言うことさえはばかられる社会です。誤解を恐れずに過激なことを言えば、進化論に基づくと自殺者が増えたほうが、より生きようとする意志の強いものだけが生き残り、競争社会に適応した勝者が増えてよい、となるのではないでしょうか。自殺者は、社会に適応する努力を自ら怠った怠け者であって、成果主義の社会においては、そんな怠け者は価値がなく、淘汰されて当然だということになるのではないでしょうか。


>「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。

確かのそのとおりです。ただ、生きる意志は生き物すべてが持っていますが、自殺は人間だけといっていいでしょう。人間だけが、生きる意志をなくすのはなぜなのでしょうか。「生きる意志」自体、神から与えられたものです。神は人間にのみ、神を認める知性を与えられました。動物は意思というよりも本能によって、生存しようとすると思います。しかし、人間は本能よりも理性が優先します。ある人は、人間と動物の違いは宗教だといいました。それゆえに、人は神を見失うときに、自分の存在意義を忘れ、自分の生きる意味を見失うのだと思います。なぜ自分には生きようとする意思があるのか、そのことを問う時に、創造主を見出すことができるのではないかと思います。

>幸いなことにそう言ってくれる友を得ることができました。

 それはよかったですね。吉野様は幸いでしたがほかの人もそうとは限りません。誰も言ってくれないときにどうしたらいいのでしょうか。親からも友人からも裏切られ、見捨てられて人が信じられなくなった人がいます。重罪を犯し、死刑判決を受けた人もいます。世間からは「早く死んでお詫びしろ」といわれることでしょう。そういう人々に対して、どのように「死ぬな。生きる意思を持て」「生きる価値がある」と言えばいいとお考えですか。
 創造論者は、たとえどんなに人の目には価値が無いように見えても、神の目には価値があることを述べることができます。人は信じられなくても神は信じられます。創造主は、生きる意思を失ったものに意思を与え、価値のないところに価値を作り出し、生きる希望と喜びを与えられます。創造論においては、本人がいかに生きようとする意思を持つかは問題でありません。その意思が無くても弱くてもかまいません。生きる意思は彼を目的を持って作られた創造主によって、与えられるものだからです。「意思を持て」といって持つことができるのは、幸せなケースに限られるのではないでしょうか。

>最初の生命から今の自分まで、「生きる意志」が生命をつないできた数億年の時間のことを考えてみてほしい、と私は告げるでしょう。自分が生まれ生きていくためにあった無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?

 私にとっては無意味です。もし、命をつなぐことに生きる意味があるというのであるならば、某大臣の発言ではありませんが、子供を産まない女性には生きる価値がないということになるのではありませんか。たとえあったとしても、それは命をつないだ女性と同等のものでしょうか。また、無数の命の「生きる意思」に思いを寄せるなら、人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違いをうまく説明できるのでしょうか。命の生きる意思に逆らって命を奪うことが許されるならば、価値のない人間の命だって奪っていいはずだと言われるのではありませんか。なぜ人の命を奪うことがいけないのか、進化論に基づく納得いく説明を私は知りませんので、ぜひ教えてください。

>「自然科学教育は人格形成に無意味である」との意見には賛成できないと考えます。

原点に戻って考えますと、エレン・ホワイトは科学教育そのものが無意味だといっているのではなく、「この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります」と言っているだけですので、誤解なきようお願いいたします。そして、科学教育よりももっと大事な目標とは「子供達や青年たちの品性を形作って、キリストの像を回復すること」です。
 聖書には「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)という有名な言葉があります。ホワイトが言いたいのはまさにここです。科学教育を受けることで、聖書を否定し、神を信じなくなるくらいだったら、やる意味が無いということです。これは科学に限りません。文学であろうと、音楽であろうと、語学であろうと、それが魂をイエス・キリストから引き離すのであれば、何の意味も無く、やらないほうがずっとましだということです。こうした理解は、人はみな死後神の裁きを受けて、永遠の命を得るか、永遠の滅びを受けるかのどちらかだという考えからきています。この世の命ははかないものですが、神が約束している命は永遠です。この栄誉を得ることに比べれば、ノーベル医学賞などはごみ同然です。
 私はホワイトの言葉に賛成するので、吉野様にも、教育の目的や人間の命について、また人生の目的について考えていただきたく、長々と書かせていただきました。創造論者が進化論になぜ反対するのか、創造論教育の目標がどこにあるのかなどを理解していただければ幸いです。
 

吉野様へ 1  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月24日(木)00時06分22秒
  長文失礼します

>「学校」がどこまでそれを行うべきかについては、自ずと限界もあろうかと思います。むしろ「教師」がそれをするのではなく、「大人」たちが行うべきかと思います。

おっしゃるとおりですが、2点質問があります。
第一はその肝心の「大人」たち自身が問題だということです。「大人」も頼りにはなりません。吉野様は、現代社会の大人たちが、子供たちの品性の健全な成長を阻害しかねない現状をどう考えておられますか。これまでの発言から推測すると、子供たちに対して「自分で善悪を考えて行動しろ」とおっしゃるのでしょうか。
 もし、そうならば私は反対です。私なら、自分で判断するのではなく、唯一の善である神に従うように生徒に教えます。自分で善悪を判断できるのであるなら、とっくにこの世界から犯罪はなくなっているはずです。しかし、実際にはなくなるどころか時代が進むにつれ、犯罪が多くなってきているように見えます。家庭教育の不十分な生徒が多いということは、つまり善悪の判断が不十分な生徒のみならず大人たちも多いということなのですから。


 第2点として、「大人」たちが行うべきだという発言は、失礼ながら教育にかかわる「大人」としては少し無責任であるように感じました。評論家の発言なら許されるでしょうが、実際に教育現場にいらっしゃるのであるのならば、実際に何ができるかをもっと問うべきなのではないのでしょうか。「大人」という中に、吉野様ご自身も含まれています。吉野様がかかわる生徒一人一人に対して、家庭教育の不足をどう補うか、どう「生きる意志」を伝えるのか、何を基準に善悪を決めればいいのか、そうしたことを教えることが、「大人」としてより必要なのではないのでしょうか。

>「進化論」は生命の発生についてはなんら述べていない、と反論させていただきます。

よく言われる反論で、狭義の意味では確かにそのとおりだと思います。しかし、それならお聞きしたいのですが、進化論は沈黙しているというのであるならば、生命の発生について述べている理論は、創造論しかないということなのですか。創造論のみが、生命発生についての唯一の説明であると理解してよろしいのでしょうか。私の理解では、一般には広義の意味での「進化論」において、生命の発生についても述べているとおもっていましたが、間違いだったのでしょうか。


>「進化論」が神による生命の創造を積極的に否定したことはありません。

そうでしょうか。ドーキンスをはじめ現代の多くの進化論者は、神によって創造されたという創造論を積極的に否定しているのではありませんか。少なくても、私がこれまでネットでかかわった進化論者たちは、創造論を「消極的に」は否定はしませんでした。みなさん、確信を持って、創造論を積極的に否定され、私は悪く言えば罵倒されました。進化論自身、「科学」であるために創造主を前提とするわけにはいかないので、積極的に神を否定していると思います。

>「進化論」は限界のある理論ですが、自然科学としては当然のことであるといえます

進化論者としては当然のご意見だと思いますが、創造論者の私に言わせれば、進化論は自然科学としては破綻していると思います。こんな根拠の乏しい、空論がなぜ通用しているのかきわめて不思議です。創造論のほうが、進化論よりも合理的な理論だと思います。

>「生きる意志」が進化の原動力となって〜ヒトという種を生み出したのだと思います。
>私は「進化」は「生きる」ことを目的とした生命の作為であり、全ての生命は生きる」ことを目的に生まれるのだ、ということもできると思うのです

 勇気ある発言に感銘いたしました。「意思」とか「目的」とか、普通の進化論者なら決して口にされない言葉をおっしゃられたので、驚きました。「吉野様はおかしい」と職場で批判され、お仕事に支障がでないかと心配いたします。言いにくいことを無理に言わせたようで申し訳なく思っています。もし、これ以上ご自分の立場を悪くするようであるならば、事情はわかりますから、遠慮されずにもう発言なされないでください。

 一応、私の反論を書かせていただきます。「意思」が進化の原動力というのであるならば、「神の意思」や「神の目的」も考えてもいいのではないのでしょうか。神の意思によって、地球は生命が住みやすい環境に前もって創造され、それから生命が創造された。神は生命が繁殖することを目的とし、また環境に合わせて変化を遂げるように設計して創造された。それらはすべて、人間の幸福のためであったと考えることはできないでしょうか。
 

斎藤様へ  投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月20日(日)20時21分25秒
  >今は家庭教育の不十分な生徒が多くなっているのではないかと思います。それは、それだけ学校での教育が重要になっていることを意味します。

>だからこそ、教師には、教える教科だけを考えればいいと言うのではないと私は思うのです。

 基本的には同意ですが、「学校」がどこまでそれを行うべきかについては、自ずと限界もあろうかと思います。むしろ「教師」がそれをするのではなく、「大人」たちが行うべきかと思います。

>私たち創造論者が創造論を受け入れるのはその「考える」能力がないからだとお考えですか。

 今回の書き込みにおいて創造論を云々することは私の意図するところではありません。もし私の書き込みがそのように読めたとしたら、私の文章力によるものですから、お詫びします。
今回の論点は「自然科学教育」であろうと意識しております。此方の掲示板の趣旨は承知しておりますが、配慮が足りなかったということでしょう。


>たとえば、生命の起源について、神が創造したと考える方が、生命が自然発生したと考えるよりもはるかに合理的だと思います。

 この点については少なくとも「進化論」は生命の発生についてはなんら述べていない、と反論させていただきます。「進化論」が神による生命の創造を積極的に否定したことはありません。それは「進化論」では否定も肯定もできないことだからです(進化があったという主張そのものが「創造論」と相容れないものであるという論調は理解しておりますので、その部分についての議論は回避させていただきます)。「進化論」は限界のある理論ですが、自然科学としては当然のことであるといえます。


>確かに進化論は人生の目的を述べる論ではありません。しかし、人間の起源については、進化か創造か、目的ありかなしかのどちらかです。そして、明らかに進化論の立場は、人間は無目的に誕生したというものです。進化論では人生の目的を述べることができないと私が言ったのはそういう意味です。

 これに対しいかに述べることは私個人の考え方であり、進化論者の考えでないことをはじめにお断りしておきます。
 私はヒトという種が誕生したときに何の目的も無かったとは思いません。そしてそれはヒト以外の全ての生物種についても同様です。全ての生命は、生きるために変化しつづけ、それが進化に繋がってきたのだと思うからです。「生きる意志」が進化の原動力となって全ての生きる(そしてかつて生きてきた)生物種を生み出し、ヒトという種を生み出したのだと思います。そしてヒトは生き続けるためにさらなる進化を遂げることができるかもしれないのです。これは個々の「人生」とは別ですが、私がいつか来る次の世代の種に向けてバトンを受け渡すランナーかもしれないという思いは、私がここに在って生きている意味の一つとして、不足なものではありません。
(あくまで個人的なものです、念のため)
ですから私は「進化」は「生きる」ことを目的とした生命の作為であり、全ての生命は「生きる」ことを目的に生まれるのだ、ということもできると思うのです。(進化論を研究する方々からはラマルク的だと批判されるかもしれないなぁ)



>現代の進化論はその理論の前提として、創造主なる神を抹殺しなければ成立しないと思います。

 上で述べたように、生命の発生については進化論の対象外です。したがって「神による生命の創造」と「進化」を全く抵抗無く受け入れる人は少なくないはずです。ただ、6日間の天地創造とは真っ向から対立せざるを得ませんが、それはこと進化に限っての話ではありません。


>>私には、他人様に人生の意味を教えることなど出来ません。

>それは人生の意味を考え悩む生徒にとって、大きな損失となるのではないのでしょうか。

 私が「他人に人生の意味を教えることが出来ない」のは私の未熟によるものですが、少なくとも共に考えることは出来ますし、教えることが出来ないから放棄するというわけではありません。励まし、手を差し伸べ、自分の経験を語ることもするでしょう。私には「教える」という言葉が「私の倣岸」に思えたと解釈いただければ幸いです。

>>生きる力とはどのようなものでどうすれば与えることができるのでしょう。
私は生きる力とはすなわち生きようとする意志の力であろうと思います。

>私は「生きる力」とは、「愛されている実感」であり、「自己の受容性」だと思います。

 そうですね。それもまた「生きようとする意志」を喚起する材料に成り得ると思います。

>もし自分の意志の力で生きていけるのであれば、簡単なことではないのでしょうか。

 乗り切ってしまえば簡単なことと言える部分はあると思います。コロンブスの卵には一面の真理が含まれているでしょう。恥を忍んで申し上げるなら、私もかつて死を思ったことがありました。死を思いつつ、結局生きている・・・自分の生命が死を望んでいないのだということが理解できてしまえば、後は簡単でした。(逆説的ではありますが)死ぬことはいつでも出来る、嫌でもいつかは必ず死ぬ。そんな風に切り替えることができました。それまでは生きてやる、と。

>そうであれば自殺したものは「意志が弱いもの」というレッテルを貼られ、敗者であり、社会の不適者となるのではないのでしょうか。

 自分の意思が強い、強かったなどとは思いません。自殺という行為を完遂するには、(それが多分に自棄的なものであるにせよ)それなりの意思の力を必要とするわけで、「意思が弱い」とは一括りにはできないと思います。
 しかし、自殺という行為そのものはどうとらえても「逃避」でしかありませんし、その意味で「敗者」であるという客観的評価は免れないと思います。社会の不適者というのは、適応できなかったから悪い、という意味ですか?確かに自殺に走るということは社会に適応できなかった結果ということはできるかもしれませんが、社会の不適者=敗者では無い様に思います。

>こういう考えは、まさに適者生存を認める進化論の考えそのものではないでしょうか。だからこそ、私は、進化論には人を生かす力はないと言いたいのです。

 これもよくある誤解と言えると思いますが、「進化論」には「適者生存」という言葉はありません。正しくは「適応放散」と言うべきであり、以下はその意味で述べます。
 生存競争の勝敗、という考え方は確かに存在しますが、それは固体と世代を超えた話です。生きようとしたものが生き残るのです。自分で生きる術を模索し「生きる意志」を示して「生命」の力を行使したものが生き残ってきたのです。「生命」の力とは、外部環境を受け入れ、あるときこれに働きかけることです。
「適応」を、生き続けて世代を重ねられれば勝者、世代を越えて生き残れなくなれば敗者と考えるなら、最初から敗者であるものは存在しません。かつて勝者であったから敗者になるのです。
 まして「適者生存」と「弱肉強食」は(よく混同されますが)別の概念ですね。「弱者」であっても生き残る術はあり、生き残れば「勝者」なのですから。

自殺者は本来は「勝者」であったのに、それを自分で放棄したのです。「適応」できなかったのではなく「適応」する努力を放棄したのです。本来的に「敗者」であったわけではありません。


> 「あなたは〜」と言うことができるは、そんな人間を創造した方だけです。

 私は幸いなことにそう言ってくれる友を得ることができました。が、別に彼が私を創造してくれたわけではありません。もちろん、創造主が彼の口を借りて語ってくれただけなのかもしれません。尤も、彼は神主ですが。

>「あなたは神に愛されている。あなたは神の目には価値ある存在だ。」こうしたメッセージを与える方が、単に「意志を強く持て」というよりもはるかに自殺防止には役立つと私は思います。

 これも私の言葉が足りなかったのかもしれません。「意思を強く持て」ではなく、「何がなんでも生きてやる」という意志を示せ、と私なら言うだろう、と申し上げたのです。「自己」を肯定的に受け止めてくれる存在が「生きる力」を導き出してくれることは間違いのないところですし、賛成します。が、その本質は「生きる意志」を自覚することだと思うのです。だからそれを自分の意識の前面に押し立ててやる。「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。それこそ物質と同じでそこに「在る」だけです。強かろうと弱かろうと、関係ないと思うのです。意思が「有る」かどうか、そして生きているからには必ず「生きる(生きようとする)意思」があるのだ、ということを自身で確認することが重要なのだと思うのです。

 生きる意味が見つからないのなら、それが見つかるまで生き抜いてみればいいのです。世の誰も認めてくれなくても(造物主は別ですよ)、自分の「生命」は生きようとしていることを知ってほしい。あるいは自分がこの場所に立つまでに積み重ねられてきた歴史、それこそ最初の生命から今の自分まで、「生きる意志」が生命をつないできた数億年の時間のことを考えてみてほしい、と私は告げるでしょう。自分が生まれ生きていくためにあった無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?



>科学は人生の意味を問う「ための」ものではありませんが、結果として人生の意味を問うことになります。科学は「どのように生きるか」という問いに無関係ではいられません。

>なぜなら、科学を学ぶものは、サルではなく、人生の意味を考える人間だからです。

 意地悪な言い方をすれば、サルたちが人(猿)生の意味について考えていない、などとは誰にも断言できない、と考えることが「自然科学」の発想であるのです。もちろん、サルたちがどのような思索を行っていようと我々には直接の関係は無いわけですが、そのように考えてみることで「彼らでさえ悩みながら生きるために頑張っているかもしれないのに、我々がそれを疎かにして良い筈がない」と考えることもまた可能だと思うのです。

>なぜ勉強するのか、自分は生きていて意味があるのか、人生の目的はなにか、を考え悩む中学高校生に、科学を教えるときには、こうした彼らの持つ本質的な問いに答える絶好の機会だととらえて、科学を通して人生についても語るべきだと私は思います。

「科学」を、「人生を考えるための材料」として使うことはできても、「科学」で人生を語ることは適当でないように思います。何故なら「科学」には必然的に(未発見の)錯誤や誤解が含まれるからです。教育に携わるからこそ、その立場を堅持しなければならないと思っております。それを踏まえて用いるなら、「自然科学」はそれを学ぶものの人格形成に有意に働くものと思います。何より「自然科学」はヒトをさえその内において(数多ある構成要素のひとつとして)、巨視的視野で相対的にとらえてこそ価値のあるものだと思うのです。外面から存在の意味を考えるときに、その実験の手法や論理展開の技能技法は役に立つと考えます。
無論それのみで人格が完成することは、残念ながら(確信をもって)あり得ませんから、哲学や道徳など、内面から「考える」ことと合わせて、両輪として進むことが理想だろうと考えます。ですから、「自然科学教育は人格形成に無意味である」との意見には賛成できないと考えます。

 拙速とならぬよう、自分の考えを言葉にするのに時間がかかってしまいました(結果としては拙遅とでも言うべき有り様ではありますが)。ともあれ、長文ならびに連投、失礼致しました。
 

管理人様へ  投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月20日(日)19時57分57秒
  私のような若輩に、満足な議論など出来よう筈もありませんが、思うところを述べさせていただきます。

「私は進化論が絶対に正しいとは申しません」と述べたのは、それが自然科学の範疇にあるからです。私が師事した恩師は常に「自然科学を学ぶならば既存の知識はまず疑ってかかれ。既存の知を覆されることを恐れるな」と語っておられました。科学の世界は日進月歩しており、「過去においてどれほど確信を持って語られようと、新たな(より正確な)成果を伴う理論の前には道を譲らざるを得ないのだ」と。「進化論」を例にとるならば、ダーウィンが提唱したそれと現代の主流である論は完全に同じではありません。


>しかし、進化論の発祥の原点には「生き物が神の6日間の創造
>によってできたということは絶対にありえない」という主張から出発しています。

これは認識が違うように思います。
少なくとも「種の起源」を著して「進化論」を世に出したダーウィン(そしてウォーレス)はそのようなことを考えてはいなかったでしょう。
進化論の発祥の原点は「生物が多種多様に変化発展している状況は『進化』という概念を用いることによって理解することが可能である」という主張であると考えます。結果として聖書の記述とは相違が生じてしまっていますが、これを否定することが目的ではないでしょう。

>進化論者が自らの知識を絶対に正しいとふりかぶることはなくても、神の創造を否
>定する所に始まったという所に問題があるのです。

管理人様は本質は同じとお考えかもしれませんが、私は大きな違いだと思います。


>一方、創造論は一般に神がこの世界と生き物を一日のうちに作られたということが
>正しいと主張します。

>それは聖書の記述に基づくのであるから、科学的考証による
>のではありません。

「創造論の主張は聖書の記述に基づくものであり、科学的考証を経ていない」ということですね。

>「神の創造は絶対に正しい」という主張から
>出発していないということです。創造科学の特徴は、聖書の記述は一旦横において、
>自然科学現象や生物の観察により聖書の記述が説明できるかどうかをシリアスに検
>証する科学です。

これに対し「創造科学は事象の観察を通じて聖書の記述についての説明を試みこれを検証する」ということで宜しいでしょうか。

私はここで、できるかどうかの「検証」の対象となるものが何か、というところが気になるのです。「検証」の結果がネガティブであったときに、「説明」のみが捨象され、「聖書の記述」については否定されることが無いのであれば、それは「科学」でしょうか。なんとなれば「進化論」もまた事象の観察を通じてなされた理論(説明)です。それは「聖書の記述」を説明するものではありませんが(そして否定的ではありますが)、科学の世界でシリアスな検証を受けてこれをクリアしてきています。もちろん完璧にではありませんが、それが科学である以上当然のことと理解します。
「神の創造は絶対に正しいという主張から出発していない」のであっても、必ずそこに行き着くことが前提であって覆ることが無いのなら、果たしてそれは「科学」なのだろうかと思えてしまうのです。

>神のなされた業から事実を演繹する人は創造科学を支援しているのです。

これは前段の“「神の創造は絶対に正しい」という主張から出発していないということです”という記述と矛盾しませんでしょうか。

この掲示板のローカルルールに抵触してしまったかもしれません。批判的意見となってしまったことについて謝罪します。
信仰の上で「創造論」を語られることを否定するものではありません。生命は神が創り賜うたものであると信じ、それを拠りどころとして「正しく」生きようとすることは一面で正しい生き方でしょう。人生に意味を見出せることに優る喜びは無いと思います。また、自然に目を向けるとき、その見事な調和に感動を覚え、そこに神を感じるひともあるでしょう。事実として、地球最初の生命の誕生はまだほとんど謎のままです(誤解のないように申し添えますが、「進化」は「最初の生命の発生」について述べることは目的としておりません)から、そこには様々な意見があっていいでしょう。

>おそらく真摯な人が進化論を極めようとすると、いずれは創造科学の道にゆくので
>はないかと思えます。

それについてはわかりませんが、進化論を研究する人が、「創造論が否定された」として神を捨てるとは私には思えません。
 

吉野様へ  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月10日(木)20時57分37秒
  >学校教育の前の段階としての家庭教育について

確かに、家庭教育は学校教育の前段階ですが、今は家庭教育の不十分な生徒が多くなっているのではないかと思います。それは、それだけ学校での教育が重要になっていることを意味します。だからこそ、教師には、教える教科だけを考えればいいと言うのではないと私は思うのです。



>そのためにも正しいコミュニケーション等々の学校以前の基礎の重要性を強く感じます。
ごもっともです。

>科学的知識」そのものは品性を育むためには直接的には役に立たない、というような認識で宜しいでしょうか?

それで結構です。

>品性向上には道徳が重要であることは否定しませんが、「考える」能力もまた重要な要素であると思います。先頃のテレビ番組における「科学」の名を借りた捏造情報を鵜呑みにしてしまうというのは、「考える」能力の欠如とでも言うべきもので、これは品性(性質、性格)が良い、とも人格が完成しているとも言い難いと思うのです。

おっしゃる意味はわかりますが、一つおたずねしたいのは、私たち創造論者が創造論を受け入れるのはその「考える」能力がないからだとお考えですか。私は、進化論者たちの方が「考える」能力がないために進化論を受け入れていると思います。真摯に「考えれば」創造論の方が正しいとわかると思っています。たとえば、生命の起源について、神が創造したと考える方が、生命が自然発生したと考えるよりもはるかに合理的だと思います。


>>人は、神によらず、無目的に登場したのですから。
>だとは思いません。「進化論」は人生の目的を述べるための論ではないからです。

確かに進化論は人生の目的を述べる論ではありません。しかし、人間の起源については、進化か創造か、目的ありかなしかのどちらかです。そして、明らかに進化論の立場は、人間は無目的に誕生したというものです。進化論では人生の目的を述べることができないと私が言ったのはそういう意味です。


>そのことを以って価値が無いとは思いません。

では、どんな価値があるのか、具体的に教えていただけないでしょうか。

>>進化論はナチスによって利用され〜
>これが明らかに誤った(あるいは恣意的に捻じ曲げられた)解釈であったことは既に多くの人の知るところです。

存じております。私は進化論がこうしたことを主張しているとは申し上げていません。悪意のある人びとによって、進化論が「利用された」と申し上げました。創造論は利用されてませんが、進化論は利用されたという点が重要ではないでしょうか。
したがって、

>進化論は「善を行う要因にはならない」かもしれませんが「悪を行う要因に」もならないと思います。

 と言う意見に私は賛成しかねます。現代の進化論はその理論の前提として、創造主なる神を抹殺しなければ成立しないと思います。創造論は疑似科学だと言われる最大の理由は、神を前提とするための反証不能性にあるからです。

>私には、他人様に人生の意味を教えることなど出来ません。

それは人生の意味を考え悩む生徒にとって、大きな損失となるのではないのでしょうか。

>生きる力とはどのようなものでどうすれば与えることができるのでしょう。
私は生きる力とはすなわち生きようとする意志の力であろうと思います。


私は「生きる力」とは、「愛されている実感」であり、「自己の受容性」だと思います。もし自分の意志の力で生きていけるのであれば、簡単なことではないのでしょうか。また、そうであれば自殺したものは「意志が弱いもの」というレッテルを貼られ、敗者であり、社会の不適者となるのではないのでしょうか。こういう考えは、まさに適者生存を認める進化論の考えそのものではないでしょうか。だからこそ、私は、進化論には人を生かす力はないと言いたいのです。
 「あなたは高価で貴い」と神は言います。「どんなに失敗ばかりしていてもかまわない。意志がどんなに弱くてもいんだよ、君はそのままの姿で生きて良いんだよ。わたしはそんなあなたを愛している。」と言うことができるは、そんな人間を創造した方だけです。「あなたは神に愛されている。あなたは神の目には価値ある存在だ。」こうしたメッセージを与える方が、単に「意志を強く持て」というよりもはるかに自殺防止には役立つと私は思います。

>このような仮定の話は意味が無いと思えます。「人生の意味を正しく知っていれば自殺などしない」というのは循環論ではないでしょうか?

 私にとっては、仮定ではなく現実の話です。かつての教え子が自殺しましたから。聖書を教え、創造論を教えたはずなのに、それでも彼は自ら死を選びました。「創造論を信じていれば一人も自殺などしない」ということはありません。しかし、たとえ、現実がそうであっても、私はやはり創造論を教えたいと思います。進化論ではもっと多くの自殺者を出すのは確実ですから。

>「自分で考えろ」「理解できるまで考えろ」「考えるための材料は与えるが、更に詳しいもの、或いは他にも違う材料が無いか、自分で探して来い」〜「思考停止するな」・・・

大変すばらしい教育方針だと思います。創造論についても、最初から否定するのではなく、自分で考えるようにと教えてください。創造論について、否定する資料だけではなく、肯定する側の資料にも十分目を通すようにと、生徒達におっしゃってくだされば幸いです。

>「自然科学」にしろ「進化論」にしろ、人生の意味や目的を問うためのものではないということ、しかし、どのように生きるかという意味で「品性」を育むための(あるいは実りある「生活」のための)一助にはなり得るということが、今の私の考えです。

おっしゃるとおり、科学は人生の意味を問う「ための」ものではありませんが、結果として人生の意味を問うことになります。科学は「どのように生きるか」という問いに無関係ではいられません。なぜなら、科学を学ぶものは、サルではなく、人生の意味を考える人間だからです。なぜ勉強するのか、自分は生きていて意味があるのか、人生の目的はなにか、を考え悩む中学高校生に、科学を教えるときには、こうした彼らの持つ本質的な問いに答える絶好の機会だととらえて、科学を通して人生についても語るべきだと私は思います。それが、教育者としての本質的な務めだと私は思います。教育者は、研究者でも塾の講師でもないのですから。
 

対比  投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年 5月 8日(火)13時43分46秒
  吉野さんは面白いことをおっしゃる。
「私は進化論が絶対に正しいと主張しません」ということですね。それはそれでよ
ろしいと思います。しかし、進化論の発祥の原点には「生き物が神の6日間の創造
によってできたということは絶対にありえない」という主張から出発しています。
進化論者が自らの知識を絶対に正しいとふりかぶることはなくても、神の創造を否
定する所に始まったという所に問題があるのです。これは神を信じない文化の人々
にとっては些細なことであるのかもしれませんが、われわれにとってはそうではあ
りません。

一方、創造論は一般に神がこの世界と生き物を一日のうちに作られたということが
正しいと主張します。それは聖書の記述に基づくのであるから、科学的考証による
のではありません。ところか、ここに「創造科学論」というものがあります。これ
は聖書の記述は神の言葉であるから真理であるという理解をもっている人たちが作
った科学ですが、この科学の特徴は、「神の創造は絶対に正しい」という主張から
出発していないということです。創造科学の特徴は、聖書の記述は一旦横において、
自然科学現象や生物の観察により聖書の記述が説明できるかどうかをシリアスに検
証する科学です。一般に聖書を読んで信じる人は創造論を信じます。しかし、聖書
の神のなされた業から事実を演繹する人は創造科学を支援しているのです。

おそらく真摯な人が進化論を極めようとすると、いずれは創造科学の道にゆくので
はないかと思えます。
 

自然科学教育の意義のようなものについての粗雑な考察  投稿者:吉野真一  投稿日:2007年 5月 7日(月)21時24分8秒
    斉藤様


批判的意見に耳を傾けていただいたばかりでなく返信をいただけたということに安堵を覚えております。


>品性とは「(道徳的な面から見た)その人の性質、性格」とあります。礼儀作法をはるかに超えたものだと私は理解しています。

私も礼儀作法が全てとは考えません。あくまでその第一歩、入り口の部分であると思っています。その上で
>>家庭教育あるいは躾によって習得されるものです。
と述べたつもりでおります。
学校教育の前の段階としての家庭教育について聊かの思いがあっての発言です。
学校教育の目的として「人格の形成」があることは承知しておりますし
その重要性に身が引き締まる思いでおります。
(学生諸君にはどのように受け取られているか、心許ない部分はありますが)

>学校教育の目的は、知識の習得よりもあくまで児童・生徒の品性向上をはかり、社会に有用な人物を育てることではないのでしょうか。

 そのためにも正しいコミュニケーション等々の学校以前の基礎の重要性を強く感じます。


>>「科学的知識」が品性を損なうなどというのは飛躍ではないでしょうか?
という発言は、私の読解力不足であったようです。「科学的知識」そのものは品性を育むためには直接的には役に立たない、というような認識で宜しいでしょうか?
 知識の量よりも、知識を受け入れて咀嚼し消化するための訓練が重要だと思います。品性向上には道徳が重要であることは否定しませんが、「考える」能力もまた重要な要素であると思います。先頃のテレビ番組における「科学」の名を借りた捏造情報を鵜呑みにしてしまうというのは、「考える」能力の欠如とでも言うべきもので、これは品性(性質、性格)が良い、とも人格が完成しているとも言い難いと思うのです。

>人は「神によって目的を持って特別に造られた価値ある存在」というのが、創造論者である私の定義です。

おそらくこの部分が最も私との相違する部分であろうかと思います。

>進化論には、人生の目的はありません。

これは正しいと思います。が、それは

>人は、神によらず、無目的に登場したのですから。

だとは思いません。「進化論」は人生の目的を述べるための論ではないからです。「相対性理論」や「量子論」、あるいは「ピタゴラスの定理」等と同様の「理論」であるからだと考えます。「相対性理論」に人生の目的はありますでしょうか?

 その意味で

>進化論そのものには、人を善に導く要素も人生の意味もないと言うことです。

という意見に反論はありませんが、そのことを以って価値が無いとは思いません。

>進化論はナチスによって利用され、ユダヤ人迫害を正当化しました。人種差別にも利用されました。

 これが明らかに誤った(あるいは恣意的に捻じ曲げられた)解釈であったことは既に多くの人の知るところです。少なくとも進化論者が主張したものではなかったものと理解しております。この事例についてはむしろ「宗教的」であったと私には思えてなりません。
 私は、進化論は「善を行う要因にはならない」かもしれませんが「悪を行う要因に」もならないと思います。
 さらに言えば、進化論は神を殺すための道具ではないのに、そのように使おうとした者がいたということだと思います。


>>私は自然科学教育の目的は自ら考える能力を身につけることだと考えております。

>確かにそれは大事なことです。しかし、教育に関わっておられるのであるならば、子供達のためにすべきもっと大事なことがあるのではないのでしょうか。

>それは、人生の意味を教えることです。

 それはとても大切なことだと思いますが、「自然科学」についての教育が直接的に担うものではないと思います。
 私には、他人様に人生の意味を教えることなど出来ません。私自身がまだ人生の意味について日々考え続けているからです。人生の意味も価値も自分で見つけるものであろうと思っています。そのために先達の言葉に耳を傾け、後の世代のために語ることを通じて「人生の意味を考えることを教える」ことしかできないと思っているからです。これは私がクリスチャンでなく仏教徒であることに由来するのかも知れません。人生の意味も目的も他者が決めるものではないだろう、自分の価値は自分で高めるべきものだろう、と思えてしまうのです。
(念のため申し添えますが、これは神の存在を云々するものではありません。)
だから、「人生の意味を考えるための一助としての自然科学教育」、ということをおっしゃっておられるのであれば賛成です。

>子供達に生きる力を与えることが今求められています。

 私は「教師」ではありませんが、私に可能なことならば生きる力を与える努力をするに吝かではありません。そしてそれは知識でできることではないというご指摘はその通りかもしれません。
 生きる力とはどのようなものでどうすれば与えることができるのでしょう。
私は生きる力とはすなわち生きようとする意志の力であろうと思います。「絶望」が「死に至る病」であるのなら、本人が「絶望」と対決し、捻じ伏せるか手懐けるかして生きようとする意志の力を揺り起こすよりほかに無い。それを支援するための努力は惜しみません。その手段は宗教でも哲学でもよいのです。ただ宗教には可能でも自然科学には荷が克ちそうです。


>もし、教えている生徒が自殺したとしても

 学生であろうと知人であろうと、自殺という形で逃避されてしまって後に残された者には、どうしようもない憔悴感と喪失感、悔恨と謂れない自責の念しか残りません。命を救えなかったという事実の前にはどんな知識も無意味です。以下もそうですが、このような仮定の話は意味が無いと思えます。「人生の意味を正しく知っていれば自殺などしない」というのは循環論ではないでしょうか?

>私なら、何を教えるにしても、「心を持った人」を育てることを第一にしたいと思います。

 これには反駁するところはありません。

>教師は単に知識や技術を伝達する職業ではありません。教師は「心を持った人物」を育てる職業です。

 そう思います。だからこそ「自分で考えろ」と私は言います。「考える」という行為は「理解」し「自立」するための作法であると思うのです。
「理解できるまで考えろ」
「考えるための材料は与えるが、更に詳しいもの、或いは他にも違う材料が無いか、自分で探して来い」
「こちらの内容が間違っていると思うなら、自分の考えを自分の言葉で述べてみよ」
「他人の見解にも耳を貸せ。そしてきちんと聞いて、それから更に考えろ」
そして「思考停止するな」・・・

 だから私が育てたい、理想とする生徒の姿とは、
「しっかりと自分の考えを持って、等身大で世界に向き合う学生」
ということになるでしょうか。

 私の専門分野は農業であり、品種改良や防疫学等々に関連して「遺伝」や「進化」についてとりあげる機会がありますが、進化論が真理で絶対的に正しい、生物はこのように進化した、といったような断定的な講義は、私はしませんし、そんなことを言い切れるものではないということは「正しく」認識し、学生にもそのように話しています。

 思いつくままの書き込みで、まとまりの無い文章でありますが、「自然科学」にしろ「進化論」にしろ、人生の意味や目的を問うためのものではないということ、しかし、どのように生きるかという意味で「品性」を育むための(あるいは実りある「生活」のための)一助にはなり得るということが、今の私の考えです。

長文失礼致しました。
 

教育の目的  投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月 6日(日)22時04分30秒
  吉野様

ご意見ありがとうございました。批判的であることをお詫びする必要はないと思います。私の考えは創造論を代表する公式見解ではなく、あくまで一個人の意見ですから、創造論者の中にも、私に批判的な人はいることでしょう。ですから、全く気になさらないでください。

吉野様はどんな生徒を育てたいのでしょうか。理想とする生徒の姿が私のものとはだいぶ違うのかもしれません。


>「品性」〜時と場所と状況にふさわしい礼儀作法ないしマナーを心得た立ち居振舞いというのがその第一歩ではないでしょうか。

そうでしょうか。手元の辞書によると、品性とは「(道徳的な面から見た)その人の性質、性格」とあります。礼儀作法をはるかに超えたものだと私は理解しています。

>家庭教育あるいは躾によって習得されるものです。

そうであるなら、学校で教える必要はないと言うことになります。しかし、それならば
「人格の形成」を学校教育の目的として教育基本法があげるのはおかしなことになります。
学校教育の目的は、知識の習得よりもあくまで児童・生徒の品性向上をはかり、社会に有用な人物を育てることではないのでしょうか。


>「科学的知識」が品性を損なうなどというのは飛躍ではないでしょうか?

私はそこまでは主張していません。創造論にとっても「科学的知識」は重要です。創造を信じる科学者たちは、「科学的知識」を否定しません。しかし、イエス・キリストを信じることと比べるならば、たとえどれだけ多くの科学的知識を学ぶとしても、それは価値がないものだと言うことです。

>「進化論」が人を人として見ないというのも言いがかりに聞こえます。

これは、「人とは何か」という定義によるのではないでしょうか。人は「神によって目的を持って特別に造られた価値ある存在」というのが、創造論者である私の定義です。進化論には、人生の目的はありません。人は、神によらず、無目的に登場したのですから。進化論の主張からすれば、無目的に登場したと言う意味では、人の価値は、ゴキブリと同じであり、岩石と同じになるのではありませんか。だから、人を「モノ」と見ていると、言ったのです。
 聖書は「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と言っています。すべての知識、技術を学ぶことに先立ち、神を知ることが大事だと言うのです。イタリアのことわざらしいのですが、「神なき教育は、知恵ある悪魔を造る」と言う言葉があります。創造主である神を否定する教育は、畏れる者がないので、自分の力が一番だと誇る傲慢な人間を造りあげます。ドストエフスキーは「神がいなければどんなことでもできる」と言いました。つまり、神を否定する進化論は、進化論は悪を行う要因にはなっても、善を行う要因にはならないと言うことです。進化論はナチスによって利用され、ユダヤ人迫害を正当化しました。人種差別にも利用されました。(念のために申し上げますが、だからといって私は進化論者が皆悪人だと言っているのではありません。進化論者にも善良な人は多く、創造論者にも犯罪者は多くいます。私が言いたいのは、進化論そのものには、人を善に導く要素も人生の意味もないと言うことです。しかし、神を信じる創造論にはそれがあります。)



>私は自然科学教育の目的は自ら考える能力を身につけることだと考えております。

確かにそれは大事なことです。しかし、教育に関わっておられるのであるならば、子供達のためにすべきもっと大事なことがあるのではないのでしょうか。それは、人生の意味を教えることです。中高生は人生の意味を考え始め、自分は生きて良いのかと悩むときがあります。日本では毎日100人近くが自殺し、新聞によれば、今日も一人高校生が教室で自殺したもようです。子供達に生きる力を与えることが今求められています。
 もし、吉野様が教えている生徒が自殺したとしても、自分は理科教師だから無関係だとお考えなのでしょうか。たとえ理科の知識や実験の手法をどれだけ学んだとしても、それがその子の命を救えなかったのなら、その子にとっては無に等しい知識となるのではないのでしょうか。
 或いは、もし吉野様の教え子が、吉野様から習った知識や技術を活用して、サリンのような毒ガスを作り、大勢の人を殺したとしたら、どうお考えになりますか。責任を感じますか。高潔